Dreams of Iwate (夢の岩手県)

2回目の岩手県は夢のプロジェクトで集まった絵を被災地に持って行く時だった。冷麺やわんこそばで有名な岩手県はいつの間にか「被災地」という名がつけられて、冷麺なんかより「被災地」として知られるようになったと言っても過言ではなかろう。かつて奇麗な砂浜や海沿いの町は一瞬にして津波に呑みこまれ、今や何もない平地になってしまったのだ。家族と家を失っただけでなく、将来の夢と希望を失った子供達のために、私とシンガポールの慈善画家ピーターが「夢のプロジェクト」を始めた。

「夢のプロジェクト」というのは、東京都内の小学校と避難所を回り、日本の子供たちに応援メッセージを描いてもらい、集まった絵とメッセージを被災地に持って行き、被災した子供たちに勇気づけて、それから自分の夢を描いてもらうという企画である。こうやって、ピーターと二人で、それから色々な先生方と友達のおかげで、500枚近くの子供による応援メッセージと絵が集まった。

馬場喜久雄先生という文部科学省の初等教育研究所の室長のおかげで、岩手県宮古市の田老第三小学校に集まった絵を届けに行くことになった。夢のプロジェクトで初めて被災地に入るし、今まで集めてきた絵をやっと子供達に届けるので、とても楽しみにしていた。夜に品川駅から夜行バスに乗って宮古市へと向かった。

夜行バスで9時間半かけて宮古市に到着した。上等席だったので意外に座り心地がよくてぐっすりと眠れた。バスを降りて、荷物を取って近くの立ち食いそば屋へ向かった。そこで、パンを千切って鳩に餌を与えている現地のおじさんがいた。かなり多くの鳩が集まってきたのにびっくりしてぐちぐち話している私達に、おじさんがパンを千切りながら振り向いた。

「市場が閉まっちゃって、鳩もスズメもカラスも餌がないんだよ。可哀そうだから餌を与えるんだ」とそのおじさんが説明した。おじさんのなまりあまりにも強くて、だいたいの意味がわかったが、聞きとりづらかった。それにしても、おじさんは優しいなと私が心底から感心していた。津波などの影響で閉まった市場は人間だけでなく、動物にも不便を与えている。助け合いの精神は人間の間に留まらず、人間と動物の間にも現れるものだ。

この微笑ましい風景に心が温められて、立ち食いそば屋で朝食を取った。そのあと歯磨きなり洗顔なりしてから、4人でタクシーに乗って田老第三小学校へと向かった。沿岸のほうに近づけば近づくほど、窓の外の風景がだんだん変わってきた。ビルが至る所で建てられている街が、広い平地に、解体される日付がペンキで壁に塗ってある津波に襲われたビルが何軒か建っている風景に変わり、タクシーから眺める私達も気が重くなった。そういう「がれき」の風景を通り過ぎて間もなく、緑一色の田んぼの風景が目に入ってきた。少し遠くには、木製のとても素敵なビルが佇んでいた。「それがおそらく太郎第三小学校だ」と運転士が言いながら、私たちは外の綺麗な風景に目が奪われてただ黙っていた。

タクシーが学校の正門の前で止まると、足早で迎えに来てくれたのが学校の校長先生だった。荒谷校長先生は満面笑顔で、私たちがタクシーから降りて荷物をトランクから降ろすのを見ていた。

簡単に自己紹介をしたら、荒谷校長先生は私たちを校内の校長室に案内してくださった。席に着くと、お茶が出されて、荒谷校長先生は一分たりとも無駄にしたくないかのように、新聞記事や雑誌をどんどん出して、話をし始めた。どこかから支援を受けているとか、校長先生自身のお母さんが新聞に載ったとか、とにかく話したいことがいっぱいあったイメージが強かった。それでふと思ったのは、こうやって大震災を乗り越えて生き残った人間たちは、強くなったのはもちろん、それなりに教訓を受けて次世代、または災害を直接受けなかった人たちにきっと伝えたいメッセージがたくさんあるだろう。

予定より早く着いたので、活動が始まるまでの間、新谷校長先生が私たちを田老町の近くにある「熊の鼻」という観光スポットに連れて行ってくださった。熊の鼻は岩泉町の海岸なのだが、突き出た部分が熊の頭と鼻と似ているので、「熊の鼻」と名付けられたという。海風に吹かれながら、私たちは幸い津波の被害を避けて生き残った海岸を眺めていた。

「私たちがここの子供たちに伝えたいのは」と荒谷先生が言い出して少しの間をあけてから続けた。「津波は怖いかもしれないけど、海のことを決して恨んだりしないでほしい」

それを聞いた私はすぐ鳥肌が立ったほど感動した。確かに自然災害は人の命を奪ったり家を壊したりするけど、ここに住んでいる人はそういう災害の元となる海とずっと仲良く生きてきた。何世代も渡って海とは愛と恨みという複雑な関係で人生を送ってきた。というのは、一回津波に襲われただけで、絶対恨んではいけない。今までお世話になって人々に愛された海であって、今もこれからもお世話になるだろうし、人々に愛され続けるだろうからだ。自分の地元が散々やられた荒谷先生からこんな寛大な言葉が出るとは、少しは驚いたが、それよりここの人々の広い心と自然への愛情を感じずにはいられなかった。

学校に戻って各クラスで活動を行った。まず馬場先生に笛のパフォーマンスを披露していただいて、私がプロジェクトの内容を少し説明してピーターさんのお話をしてから、早速子供たちに自分の夢を描いてもらった。津波で家を失ったり色々苦労したりしたが、自分の夢を描くことによって、将来への希望を忘れずに目標を常に持ってそれに向けて頑張れるようになるだろう。私がみんなに伝えたいのは、自然災害なんて避けられるものではないので、それを嘆きながら生きていくより、いざそういうときになったら、大切な家族や友達、それから周りの見知らぬ人でも、助け合うことが大事だということ。自分の夢をしっかり持っていることによって、目の前に起きる悲劇を長い目で見れば、それは人生のほんの小さな一部に過ぎなくて、それを乗り越えれば、自分の夢に向けて走り続ければ、もっと素晴らしいものが待っているのだ。

田老第三小学校は全校生徒16人しかいなくて、家族を亡くした生徒はいなかったみたいだけど、家が流された人は一人いた。校長先生の母親は11歳のときに大津波に遭って、家族7人全員が亡くなって、一人だけ生き残ったという。そのあと北海道でおじさんの家でお世話になりながら生きてきた。今回もまた大津波に遭って、そしてまた生き残った。そんな校長先生の母親は子供が6人いるのだが、彼女の夢は6人の子供をみんなちゃんと勉強をさせることだったみたいだ。金銭的な問題などを乗り越えてその夢をかなえるのだろうかという疑問はあったが、今現在、その6人の子供のうち、4人が学校の先生になっている。なんという感動的な話だ。

学校が終わったあと、荒谷先生の家に案内していただいた。家は津波に遭ってビルは残っていたが、中身はごちゃごちゃになっていた。そんな家にはもう住めないということで、お姉さんの家に泊まらせていただいているようだ。お姉さんの家にも案内していただいて、母親にもお会いすることとお話を伺うことができた。

貴重な経験をさせていただいて、本当に荒谷先生、そして荒谷先生と連絡を取っていただいた馬場先生に感謝している。悲しみ、感動と達成感の混じった気持ちで、私はその翌日岩手を離れて福島へと向かった。

投稿日: 2012年2月25日 | カテゴリー: Iwate (岩手県) | パーマリンク コメントする.

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